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No.021 第17章 東中野01 1596文字

こうくん

青梅市では都会(新宿渋谷)から遠いと思って東中野の3畳1間月13,000円風呂無しトイレ共同と言う物件に引っ越しました。でも勉強は出来るようにならないしバイト先は決まらないと八方塞がりでした。高田馬場駅に朝6時頃行くと日雇いの仕事が有って朝6時に行って車に乗って建築現場に行って日暮れまで働くと8,000円くれました。帰りは自分で電車に乗って東中野に帰ります。8,000円を3日くらいで使い切り2日くらい水だけで生活してました。2日間水だけだと流石に死にそうになり3日目は必ず高田馬場駅に歩いて行って日雇いの仕事をすると言うのを繰り返しました。2ヶ月くらいしてもうだめだなと思い始めてました。銭湯で日給2万円と書いてある貼り紙を発見しました。電話して見るとホモの店で2時間7,000円で泊まりだと9,000円と言う仕事でした。どうしようかなぁ〜と迷って面接の日は「カウンターで立って見学してて。」と言われ夕方の7時〜10時くらいまでカウンターで立って居ました。18歳頃のこうくんは50歳くらいのはげでぶ中年に「あの子いいねぇ〜」と言われて嘘〜と思ったけど本気なのだなと思ったら貧血起こしました。とりあえずその日は働かずに新宿2丁目から東中野へ帰りました。で次の日お金が40円くらいしかなくて中野坂上駅から新宿2丁目まで行くお金が有りませんでした。こりゃぁ〜駄目だなと思い2度と帰らないと誓った実家に電話をかけました。高校時代の知り合いが菊池桃子のテレホンカードをくれたのを使わずに取って置いたのがありました。500円分だったけど公衆電話から実家に電話して「東中野まで来てもらいたい」と母親に言いました。手元に合った40円のうち30円でビスケットを買い次の日を待ちました。母親が東中野駅に来てくれて「お金がない」と言うといくらかお金をくれて「実家に帰りたい。」と言いました。「何時でも帰っておいで。」と言われ青梅市3ヶ月東中野3ヶ月合計半年の1人暮らしが終わりました。あのとき面接で「今日から働いてもらいます。」と言われていたらまた違う人生になっていたかも知れません。とりあえず実家に帰りました。ここで懺悔が有ります。某宅急便会社で働いた時17歳でした。スクーターの免許証を少しカッターで削って昭和44年生まれの所を昭和43年に見えるように細工しました。夜勤は18歳からじゃないと出来なかったのです。でホモの店も実は2軒行っていて1店目は免許証にした細工がばれてしまい働けませんでした。17歳だったのでここで公文書偽造事件を行いました。青梅市から東中野に住所を変更するとき昭和44年の所を昭和43年にしてコピー機を使ってコピーして中野区の区役所に持って行きました。実家に戻った時に茎崎市役所で「何か誕生日が間違って居るみたいです。」と言ったら「以前茎崎にお住まいでしたか?」と聞かれて「はい」と答えたらすぐに44年に戻してくれました。1ヶ月くらいだけ昭和43年生まれに成っていました。免許証も43年生まれの原付バイクの免許証を再発行してもらい持っていました。2店目の面接の時は43年生まれの免許証でした。茎崎の実家に戻った時に免許証も44年に戻しました。やらかしました。ホモの店で働く気が無かった訳では無かったです。ただ交通費が無かったから次の日行けませんでした。大変でした。1人暮らしはもう暫(しばら)くは出来ないと思いました。3畳1間の部屋は毎晩ごきぶりが20匹くらい出ていました。耐えられ無かったです。風呂が無くてもトイレが共同でも耐えられましたがごきぶり20匹はこうくんには無理でした。世の中お金がないと生きて行けないのかと勉強に成りました。お金を稼ぐと言う事がさらなる間違えた方向にこうくんを走らせることになります。それはまた次章が有れば書きます。

皆さんの幸運をお祈りします。❤

 

 

 

 

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