昭和49年5歳の時に愛媛県松山市に東芝に勤める父の転勤で広島県広島市から引っ越しました。🤗松山市にも短い期間約1年くらいしかいなかったです。😅広島市で幼稚園に入っていたと思うのですが広島市での幼稚園の記憶は全(まった)くないです。(なぜか忘れっぽいです。)😖松山市には小学校に入学する3ヶ月前に引っ越しました。🐤なので父と母が話合って幼稚園の制服と備品を1式揃えるのはもったいないと言う事になり🐶こうくんは3ヶ月の間は家に居るだけと言う生活に成りました。☺空白の3ヶ月間です。🐦この頃の思い出と言えば昼間に1人で公園で遊んでいたら近所のおばさん達に「あの子は何処(どこ)の子かしら?」と怪訝(けげん)そうな目で見られていたのを2秒くらいの映像で憶えています。😅それと車で父と海岸へ日曜日の朝7:00頃に行って日清カップヌードルを自販機で買って食べた記憶が3秒くらいの映像として残っています。😄温かくて美味しかった思い出です。🥲恐らくこの頃は控(ひか)え目でおとなしい子供で幸せや不幸なんて考えることも無かったと思います。それととある事件がありました。😅(時期が間違っているかも知れない)大通りの交差点で「横断歩道は手を挙(あ)げて渡りましょう!」と教わったので信号が赤なのに手を挙げて待ってました。👀するとタクシーが止まりドアが開いて父親が慌(あわ)てて「乗りません」(と言う風な事を言った気がします。)と言うとタクシーの運転手が罵詈雑言(ばりぞうごん)を言って怒って去って行きました。😅その後「手を挙げるな!」(そんな感じの言葉でした。)と怒られた記憶が有ります。😰この思い出が教わったことは全(すべ)て正しい訳では無いと初めて感じたエピソードとして記憶に残っています。🤣そしていよいよ小学校入学です。😱松山市の桑原小学校(間違っているかも知れません。記憶が定かでないです。)と言う小学校へ入学しました。🌞この頃は自分が不幸にしか生きられないとは欠片(かけら)も思っていませんでした。🌛自分が不幸だともこの頃は思っていませんでした。(ほぼ記憶がないです。)😂小学校に入ってからのことは次章でお話します。🤣この「こうくんの歴史ノンフィクション」は超超超不幸に生きて行く事になった男の記録です。🐴このような風にはならないように生きてもらいたい。☺と言う願いを込めて書いています。🤣これを読んで第2のこうくんが誕生しないと幸いです。😭
皆さんの幸運をお祈りします。❤